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コナミスポーツクラブ泉

上記名称での営業期間2002年10月〜2004年12月25日

コナミスポーツクラブ泉の当時の写真
  • 施設略年表
  • 「オレンジワン泉」:1988年11月1日〜
  • 「泉DOSCアイスアリーナ」 (Daiei Olympic Sports Club; DOSC) :1998年に名称変更
  • 「コナミスポーツクラブ泉・スケートリンク」:2002年10月に名称変更〜2004年12月25日閉鎖
  • 「アイスリンク仙台」:2007年3月22日に再開〜
  • 場所:宮城県仙台市泉区高玉町9-2
  • 開業:1988年11月1日(「オレンジワン泉」として開業)
  • 閉鎖:2004年12月25日(2007年3月22日に「アイスリンク仙台」として再開)
  • 規格:メインリンク:56m×26m(国際規格)
  • 備考:かつて宮城県仙台市泉区高玉町に存在したスケートリンク。1988年に「オレンジワン泉」として開業し、事業主の変更に伴い2度の名称変更を経て当時の名称となった。長久保裕コーチを初めとする指導陣が数々の日本代表級のフィギュアスケート選手を育てた。
    羽生選手は4才頃からこのリンクでスケートをはじめ、初のホームリンク(練習拠点)とした。

コナミスポーツクラブ泉の変遷図

勝山スケーティングクラブ

1978年12月9日〜2009年4月30日

勝山スケーティングクラブの写真
勝山スケーティングクラブのリンクの写真
  • 場所:宮城県仙台市青葉区上杉2-10-30
  • 開業:1978年12月9日
  • 閉鎖:2009年4月30日
  • 規格:メインリンク:56m×26m
  • 備考:かつて宮城県仙台市青葉区上杉に存在したスケートリンク。仙台市都心部の北側に位置し、上杉六丁目交差点(愛宕上杉通と北六番丁の交差点)の南西の街区内である。 1978年(昭和53年)12月9日開場し、2009年(平成21年)4月30日に閉鎖された。同年中に建物は解体され、跡地は西友上杉店等の平面駐車場として利用されている。
    1階は駐車場、2階にリンクや付属施設、かのおスポーツ勝山スケーティングクラブ店(スポーツ用品店)などが入居していた。リンクは全天候型で、年間を通して営業していた。 利用者数は、1980年(昭和55年)には約18万人/年に達していたが、晩年は4-5万人/年と落ち込んでいた。
    78年当時から、リンク所属のアイスホッケーチームとフィギュアスケートのクラブがあり、リレハンメルオリンピック男子フィギュアスケート代表の及川史弘が所属し、長野オリンピック女子フィギュアスケート代表の荒井万里絵やトリノオリンピック女子フィギュアスケート金メダリストの荒川静香が子供の頃に通っていた。トリノオリンピック後には、中野友加里らのスケーターが来ていた記録がある。

日光電気精銅所リンク

1925年12月〜1957年

  • 場所:栃木県日光市清滝3丁目水沢地区 
  • リンク開業:1925年12月
  • 戦後再開 :1950年1月15日
  • リンク閉鎖:1957年
  • 広さ:約1,322M2(400 坪と表記)
  • 仕様:コンクリート製のプール兼用スケートリンク
  • 主な競技会開催歴:1929年 第1回全日本フィギュアスケート選手権
  • 備考:かって地元では「精銅所リンク」または「水沢リンク」の名で呼ばれており、第1回全日本選手権の際にフィギュアとアイスホッケーの会場だった。日光電気精銅所(現・古河電工日光事業所)の北に位置した屋外貯水・散水天然結氷リンクで、開業当時はフェンスがなかった。
    精銅所アイスホッケー部のホームリンクとして多く使われ、フィギュアの競技会にも使われた。戦中は一時閉鎖されたが戦後に再開。1952年には米国ニューヨーク・メトロポリタンス(メッツ)のアイスホッケーチームが来日し、ここで古河電工と招待試合を行うなど、1957年に「電工リンク」がオープンするまで、全日本選手権をはじめとするアイスホッケーの熱戦が多く繰り広げられた。現在は古河電工の社有地として、当時の建物は撤去され、草が生い茂っており、周囲はトンボ線が張られている。

山王ホテルアイススケート場

1932年3月6日〜1942年

山王ホテルアイススケート場
  • 場所:東京都千代田区 山王ホテル地下
  • リンク開業:1932年3月6日
  • リンク閉鎖:1942年
  • リンク規格:屋内36x20m
  • 主な競技会開催歴:1933年 第4回全日本フィギュアスケート選手権
  • 備考:かって赤坂に建つ山王ホテルにあった屋内リンク。リンクオープンと同時に交野政邁(こうの せいまい)氏により「東京スケート倶楽部」が創設され、東京在住のスケーターが多く入会した。1933年1月の第4回全日本選手権で初めて競技会で使われるが、リンクが狭く、国際規格を満たさないために芝浦スケート場がオープンした後は主にスクール用に運営。
    また、1936年1月24~26日に開催された第7回全日本フィギュアスケート選手権は、同年2月の「二・二六事件」の決起部隊・指揮本部が山王ホテルにおかれる事態の直前であり、大会は無事に終了した。

伊勢丹アイススケート場

1933年10月15日〜1943年

伊勢丹スケート場の写真
  • 場所:東京都新宿区 伊勢丹新宿店事務館2階
  • 開業:1933年10月15日
  • 閉鎖:1943年
  • GHQ:戦後はGHQ娯楽施設「ダイヤモンドホースシュークラブ」の一部として運営
  • リンク規格:屋内36x21m
  • 主な競技会開催歴:1935年 第6回全日本フィギュアスケート選手権(コンパルソリーフィギュアのみ)
    1951年第20回全日本フィギュアスケート選手権は参加者1名のため中止
  • 備考:かって伊勢丹百貨店内にあった屋内リンク。

芝浦スケート場

1933年11月26日〜1943年

東京芝浦アイススケート場の外観と更衣室の写真
東京芝浦アイススケート場の室内リンクの写真
  • 場所:東京都港区芝浦4丁目 
  • リンク開業:1933年11月26日
  • リンク規格:屋内25m×60m、客席数: 1500(オープン時)
  • リンク閉鎖:1943年
  • 主な競技会開催歴:1952年 第21回全日本フィギュアスケート選手権
  • 備考:かって日本国内では唯一、国際規格を満たすリンクと大きな観戦スタンドを設け、戦前は"東洋一"の規模を誇っていた国内屈指の屋内リンクであった。当時の建築費は約30万円で、バスルーム、シャワー設備などをそなえていた。 1935年(昭和10年)開催の第6回全日本選手権のフリースケーティング会場・アイスホッケー会場として初めて使われ、以後、戦前の主要なフィギュアスケート大会・アイスホッケー大会の会場として多く使われた。戦後、昭和25年に「北海道水産製造株式会社」(現・「道水」)に吸収合併され、10年後の昭和35年、同社の東京芝浦倉庫に転用されてリンクは撤去。その後昭和61年3月に同社の倉庫業廃止にともない建物を解体、ビルに立替られて現存しない。

後楽園アイスパレス

1951年10月1日〜1971年9月、1973年4月20日〜1993年4月5日

初代後楽園アイスパレスの写真
  • 場所:東京都文京区後楽 初代:軟式野球場跡地 2代目リンク:黄色いビル内 
  • 初代リンク開業:1951年10月1日
  • 初代リンク閉鎖:1971年9月
  • 初代リンク規格:屋内56x26m、客席数:3000
  • 2代目リンク開業:1973年4月20日
  • 2代目リンク閉鎖:1993年4月5日
  • 主な競技会開催歴:1952年 第21回全日本フィギュアスケート選手権
  • 備考:かって後楽園にあった屋内リンク。軟式野球場跡地に平屋建てスケート場として初代のリンクがオープン。競技の他にも数多くのアイスショーの場としても利用された。「後楽園スケートクラブ」では片山敏一・稲田悦子らの名インストラクターが指導し、福原美和・樋口豊選手ら多くの名スケーターが誕生していった。また、建物内部には片山氏が「片山スケート」店をオープン、夫妻でスケート用具などの販売も行っていた。
    その後初代リンクは解体され、跡地には1973年に「黄色いビル」がオープンし、スケートリンクはその6階にリニューアルオープンされ、品川スケートセンターと並んで都内でトップクラスの規模と選手層を誇り、一時代を築いた。

品川スケートセンター

1962年12月1日〜1991年3月31日

品川スケートセンター場の写真
  • 場所:東京都港区高輪 品川プリンスホテル
  • 開業:1962年12月1日
  • 閉鎖:1991年3月31日
  • 備考:かって品川プリンスホテルにあった屋内リンク。全日本選手権をはじめ、フィギュアスケートやアイスホッケーなど、数多くの競技会やアイスショーなどで利用された。1990年10月、西武鉄道により屋内型スケートリンク「新横浜スケートセンター」が新規開業したことに伴い、翌1991年に閉鎖。西武鉄道アイスホッケー部も本拠地を新横浜スケートセンターに変更した。品川スケートセンターで行われていたスケート教室も新横浜スケートセンターにて行われることになり、所属していたスケートコーチの多くも新横浜スケートセンターに移っている。